著名なアメリカの伝道師、ビリーグラハムは言いました。「今日の世界は、猛烈に『希望』に飢えています。しかし、数えきれない人々があきらめてしまっており、落胆と失望が世の中に蔓延しています。私達は、忠実にイエスにある希望を宣言しましょう。」
この歌は、私達がイエス様にある希望を世界に宣言する事を願って書きました。
若い頃、世界や将来に持っていた夢や希望も、現実を知るにつれ段々色あせて行くという経験をしたと思います。最近は、若者さえも世界や将来に希望を見出せず、たくさんの人が苦しんでいると思います。私達が持つ希望には条件があります。健康や活力、能力や技術、経済力や財産、環境や機会、容姿や名声。このような条件に支えられている希望は、非常にもろく失われやすいものです。病に倒れ、事故に会い、裏切られ、だまされ、人間関係が崩れる時、突如として、悲しみや苦しみ、痛みや悩みが私達を襲います。私達は人生に落胆し、失望します。希望を失うのです。
しかし、キリスト者の希望はこれらの条件とは全く異なり、多くの人々は落胆や失望に直面する時にイエス様にある希望を見出します。
「悲しみが襲い 心乱れる時 主よ あなたを探します。」
教会の屋根には十字架が掲げられています。十字架は歴史の中で、もっともむごたらしいと言われる死刑の道具でした。多くの罪人や囚人がこの死刑の道具で処刑されました。しかし、この十字架を見る時に、人々が思い出すのは、他の誰でもなく、イエス・キリストです。なぜでしょうか?イエス様の時代、人々はイエス・キリストを裁判にかけましたが、彼に罪を見出す事が全く出来ませんでした。しかし自分達のプライド故に、神の子イエス・キリストを十字架にかけて殺しました。イエス様は十字架上で、「父よ、彼らを赦して下さい。彼らは何をしているのか分からないのです。」と私達人類の為に祈られ、人類すべての罪を背負い死なれました。この日が、人類の歴史の中で、最も暗黒で希望が失われた瞬間でした。
しかし(私達はこの「しかし」に希望を見出します)、イエスは墓に葬られて3日後に、死の力を打ち砕き、墓を打ち破り、よみがえられたのです。私達は、最終的に肉体の死を持って人生を終えて行きますが、生きながらも人生の中で、悲しみ、痛み、悩み、苦しみによって失望する時、ある意味で「死」を体験します。イエス様の十字架と復活は、私達にこの失望によって訪れる「死」の力をも打ち破る希望を与え、そして究極的には、肉体の死からの復活と永遠の命の希望を与えるのです。自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを信じる人は、このキリストに繋がれ、よみがえりの希望に生きる事が出来るのです。これは、どのような人生に起こってくる落胆や失望も、希望に溢れた人生に変え、決して失われる事がないのです。
これが、教会に十字架が掲げられている理由です。どの様な絶望も、イエス様にあって希望に変えられます。クリスチャンは、この事を忘れる事なく「ハレルヤ!」(主をほめたたえよ!)と歌いつつ歩む事が出来るのです。
この歌によって、クリスチャンがイエス様にある溢れる希望を歌い宣言する事を願っています。